不安と向き合う。ジョジョはいつも僕に生きる活力を与えてくれる。

不安である。

なんで不安なのだろうか。
そもそも不安とは何か。
不安というものを自分なりに定義してみると、安心、安定、していない。ということ。
では安心、もしくは安定とはなにか?まあどちらも似たような感じなので、ここでは「安心」にフォーカスしてみる。
「安心」とは、自分が満ち足りている状態を表していると思う。
当面生活できるお金がある。友人がいる。家族が健康である。将来に続く仕事をしている。
(あれ、最初にお金が来た。まあ結局色んな物はお金で買えるわけで、これは自然なことだろう。)

即ち不安とは、欲するものが足りない状態であるということを表す。



そうそう、DIOエンヤ婆にこんなやりとりがあった。

ジョジョの奇妙な冒険』JC14巻参照
−−−
DIO ”エンヤ婆… ひとつ尋ねるが、「生きる」とは何だ?”
エンヤ婆 ”………………「 欲するものを手に入れること」ひとことで言うなら人が生きるということは「ただそれだけじゃ」 金が欲しい、名誉が欲しい 食べ物がほしい 愛がほしい 恋人がほしい…… ヒヒ……”
DIO ”…… しかし欲する物を手に入れるとき必ず戦いが起きるなエンヤ婆
エンヤ婆 ”たしかに………ヒヒ”
DIO ”戦いに敗れ欲するものが手に入らなかった場合……挫折感と敗北感を味わい傷つき…そして次なる戦いのとき「恐怖」を感じるようになる。……おれは「恐怖」を克服する事が「生きる」事だと思う。 世界の頂点に立つ者は!ほんのちっぽけな恐怖をも持たぬものッ! 分かるかエンヤ婆?」
−−−

僕はエンヤ婆の言うことが即ち「生きる」ことだと思うし、それは「安心」を追い求めることとほぼ同義であるといえるだろう。ここは資本主義経済下で育った人間ならば結構同意できるところなんじゃないかと思う。

しかし、DIO様の答えは更にその先を見ている。戦いに常に打ち勝ち続け「恐怖を克服すること」即ち「生きる」こと。
これは欲の果てにある一つの到達点を示していると思う。そこにシビれる憧れるゥわけだが。

DIO様の考え方でいくと、結局は個人の不安を解消するには世界の頂点に立たなければならない。ということになる。
これは人との関わりの中で優越感を感じることに喜びを感じる人間の性向としてはある意味で至極当然だ。もしかしたらザ・ワールドくらいのスタンドがあれば可能かもしれない。
そんなDIO様だが、劇中では結局「あなどれなかった」存在である承太郎にやられてしまう。これもまた、現実的な示唆であるといえよう。一度頂点に立ったつもりでも、常に自分と同等またはそれ以上の存在の出現に怯えなければならない。
つまり、戦いに勝ち続けるということは現実問題、DIO様でさえ不可能なのであり、「生きる」ことの到達点にはいつまでも辿りつけないのである。

人はなぜ「生きる」のか。争い続けるのか。
それは誰しもが恐怖を克服したいと考えているからであると、そんな結論が浮かんでくる。


やはりジョジョの劇中で、かのウィル・A・ツェペリさんもこのように述べている。
ジョジョの奇妙な冒険』JC3巻参照
−−−
”「勇気」とは、「怖さ」を知ることッ!「恐怖」を我が物とすることじゃあッ!”
−−−

なんということであろう。ツェペリさんも、DIO様も、考える対象が「人生」と「勇気」という違いはあれど、重要な事は「恐怖」の克服にある、という点では同じ結論に達しているのだ。もっとも、DIOは100年後に気がつくのだが。


上記を踏まえると、
「恐怖」の克服にはどういった方法が取れるのか?
というのが人生の命題になると考えて良さそうだ。



さて、冒頭に戻るが、
「不安である」≒「恐怖を感じている」ということは、それを克服することで成り立つ「生きる」ための前提条件であると言ってもいいのだろう。
「不安である」ということは、自分が世界の頂点に立っているのでなければ(立っていたとしても)至極当然に感じる心持ちなのである。
「不安である」をそのままにしてしまうということは「生きる」ことを放棄していると言っても過言ではないのかもしれない。恐怖を勇気をもって克服するためのアプローチこそが「生きる」ことなのだから。

ということで、
克服する方法を見つけようとする限り、「不安」を感じているのはいいことだ。
という結論に達したところで本日はここまで。


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